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  2015/3/9

先日、尊厳死が世界中で話題となり、同時に社会問題となったので、今日はこれについて考えてみます。

まず問題となった点は二つ考えられる。一つは生存権であり、もう一つは尊厳死自死であるか否かである。

前者で生じる問題は、人間によって他者の生死を選択するということは、殺人や自殺幇助になるのではないかというものである。
肯定的な立場から見るならば、QOLや尊厳を保つ目的であるため、必要であろう。近年の無意味な延命治療を考慮すると、もっともである。
しかし、全ての尊厳死を行う組織が法や個人の意思を配慮しているとは限らない。悪意ある人間が尊厳死の名のもとで、殺人を行っていてもおかしくないのだ。楽観的に尊厳死を捉えてはならず、こういった問題が背景にあることを知っておかねばならない。

メディアで取り上げられている組織は、何十もの審査を経て尊厳死を受け入れているが、そういった組織はオランダやスイス等の海外諸国に多く存在し、そこに多くの人が訪れているのは、やはり日本において十分な体制が整っていないからであろう。

現在の日本では尊厳死法案は認められておらず、今もなお国会で議論されている。一般の我々は署名活動などでしか参加できず、その先は国会議員の方に任せるしかないのである。問題は山積みであるが、他人ごとではなく、一日本国民として考えていくべきなのではないだろうか。

後者は言わずもがな、尊厳死は自殺であるか否か。私はこの点について深く考えたい。

自らの意思で死を選ぶことは、確かに自殺であるとも考えられる。医師や薬を用いているとは言え、結果として自らの死を自らで決断しているからである。

極端な例ではあるが、死と直面しているような職業が数多くあり、彼らはそれを理解した上で職務に当たっているわけである。そういった心情を勇敢と捉えるか、無謀と捉えるか、それは個々人の見解で大きく変わるはずである。

上記のような、仕事として死を迎えることと、病気や諸事情によって死を迎えることは同じではない。しかし、死が近いとわかっている点では似た部分もあるのではないだろうか。

尊厳死を選ぶ方の大多数は肉体的苦痛が原因である。延命治療を続け、耐え難い痛みと闘い続ける、または家族や周囲の人々に迷惑をかけたくない、そういった理由で尊厳死を選択するのだ。

日本では生きることが半ば義務のようになっているものの、死ぬ権利というもの存在しない。憲法がある故に仕方がないのだろうが、これは尊厳死を望む人々の意思を尊重していないとも考えられる。

ここまで挙げた疑問点を私自身で読み返したが、やはり尊厳死は単なる自殺とは異なるものであると思った。根本的に似て非なる問題なのである。