3

  2015/3/8

自己開示は一部の人にとって非常に容易いものであると思われる。考えや悩み、自分の人となりを他者に話すだけとも言えるからである。単なるコミュニケーションとしても利用できるし、親密な関係を築くために用いることもできる。「僕はこういう人間なんだ」「私はこんな考え方なのよ」と他者に示すことで、表面上では理解できない本質を伝えられる。

こう表現すると便利で有効的な手段に聞こえるが、私には一切共感できるものではない。

私は昔から自己開示が苦手で、更に言えば自己開示をすることが嫌いなのだ。自分の考えていることや悩んでいることは山のようにある。しかし、それらを何のために、何故、赤の他人に言わなければならないのか。私の過去や秘密を話す必要がないではないか。

そう考える理由はいくつか挙げられる。
まず一つ目は、人間の根底にある問題意識を共有することは不可能だからである。ただ、共感することとは別である。共感は一種の同情や哀憫が含まれていて、相手を思いやっているものの、ある意味他人ごととして捉えられるのだ。
しかし、共有はその事象を自己に取り入れ、相手と同様の心情となる。口では簡単に気持ちを共有できると言う人もいるが、それは困難であるし、ほぼ不可能ではないだろうか。
根底にある本質は、過去の積み重ねで形成されるものであり、短時間の対話を通しては決して理解し得ない。

そして二つ目は、自分を知られるのが怖いからである。趣味や好き嫌いを知られたのだとしても、特に支障はないのだが、自分の心の内を見られると、全てを支配されてしまうような錯覚に陥ってしまうのだ。人格や本質を知られると、他者からの影響が強く反映され、私が私でなくなる気さえする。

最後に三つ目は、他者との交流が嫌いだからである。近年、「縁」や「一期一会」といった言葉を好んで使う人が増えている傾向にある。私はこれらの言葉の響きが非常に苦手であり、嫌悪感を覚える。
一時的な交流であれば苦ではないのだが、その交流を崇高なものとして扱い、FacebookTwitterの友達数がステータスとなっている。

果たして、そういった繋がりがどういう意味を持つのだろう……。