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  2015/3/7

自殺とは何であるか。言わずもがな、自らの意思で死を選択する行為である。ここではどういった問題が生じるのかを考えてみます。

多くの人がまず思いつく理由は、感情論であろう。遺された家族が可哀想であるから、または生きたくても生きられない人がいるから、等々。ひとまず二つの例を挙げて考察してみる。

前者は言葉通り、自殺者の遺族の気持ちを配慮しているものである。親や子が突然死んでしまう、その悲しみは計り知れないものであろう。
その上、原因が自殺となると、側にいて何か出来たのではないか、異変に気づけたのではないかと、自分を責めても責めきれないほど後悔するはずだ。
心が安定している状態で自殺を行う場合は少ないと思う。突発的に死への衝動が起ききたのだとされていても、それは安定しているように見えていただけであり、本人の心の奥では、一人で背負いきれない苦しみがあっただろう。

自殺をほのめかすような予兆はいくつも考えられる。例えば自傷行為が激しくなったとき。例えば日常的に「死にたい」と言っているとき。自殺した著名人に興味を持つ場合もそうであろう。

我々の近くに上記のような人がいたとするなら、どう接するのが適しているのだろう。
家族や恋人、親しい人達が親身になって話を聞き、彼の苦しい現状や悩みを理解すれば良い、と言う楽観主義者が大多数だと思うのは私だけなのでしょうか。
もちろん、信頼できる人に苦悩を聞いてもらうことは大切なことであり、会話の中での何気ない一言が胸に響くときがある。自分は生きなければならないと思えたのなら、それは結構である。

しかし、会話を通して怖れるべきことは、励まされることである。励ましの言葉をかける立場の人間は、死のうとは毛頭思っていない。それに対して励まされる立場の人間は、死のうという意思が前提にある。鬱病の患者にがんばれと言ってはならない原理と同じようなもので、励まされるとより一層、死が身近になるのである。

いくら親密な関係でも、どれだけ悩みを打ち明けても、本心は決して他人には理解できないものなのだ。精神科医やカウンセラー等のプロの方と話をしても、彼らには当人の深い闇を覗くことはできない。
カウンセリング治療が合う場合は、聞く側の上手さ、もしくは患者の自己開示ができたときだろう。