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  2015/3/16

自殺が否定される理由の一つとして、「人間には生きる義務がある」というものが挙げられる。今回はそのことについて考えたい。

三大義務や三大権利が人間には備わっている。言わずもがな、三大義務とは「教育の義務」「勤労の義務」「納税の義務」であり、三大権利とは「生存権」「教育を受ける権利」「参政権」である。
この中でも特に生存権がこのテーマに適しているだろう。

「人間が人間らしく生きるのに必要な諸条件の確保を要求する権利」となっている。果たして人間らしさとは何なのか。個々人の人間らしさを尊重するのであれば、何故それは生きることが前提とされているのか。私にはその点が疑問であり、そして不満なのである。

まず、それらの義務や権利を作ったのは自然でも神でもなく、人間であり、絶対化できるものではないであろう。現代社会で生きていく上で、それに沿わなければならないのは仕方がないことであるが、どうも納得がいかない。個人の意思を蔑ろにしておきながら、義務や権利を主張するのはどうなのでしょう。

そして、尊厳死の話とも重なるのだが、生きる権利があるのならば、死ぬ権利があってもおかしくないのである。
どう生きるか自由がある程度認められているのだから、どう死ぬかという自由も場合によっては容認されるべきではないか。

我々は当然のように生きているが、その目的と義務とは何であるのかを考えなければならないのかもしれない。

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  2015/3/14

私はもっぱら遠藤周作氏の著書しか読まないのですが、今回は夢野久作氏の『少女地獄』の第一部「なんでもない」から、嘘とは何であるのかを考察しようと思います。

あらすじとしては、自分の空想の中を生き、その為に嘘を繰り返していかねばならなかった少女の話です。彼女は諸事情により、嘘に嘘を重ねていきます。そして結果として、自殺をせねばならない状況になるのです。

私が日々の中で嘘を言い重ねているのかはここで言及しませんが、嘘に嘘を重ね、本来の人物像がわからなくなることは確信できます。
真実を語らず、さも現実かのように嘘の中で生活をしていると、それ自体が現実となり得ます。

果たして誰も気づくことのない嘘は嘘であるのでしょうか。
最初に出会ったときに真実とは異なる情報を発信し、最後まで突き通したとしたならば、それは嘘ではなく一種の現実と考えられます。

当人にしか知り得ない物事は、決して他者にはわかるはずはありません。
なぜなら、本来は自分のことですら全てを知ることはできないからです。

周囲から判断される人物像は当人にとってどういった意味をもつのでしょう。
他者から見た人物像や評価は、あくまで参考程度なのです。
誰からどう思われ、どう言われようと、気にならないのであればそれで十分だと思います。

しかし問題は、自己に対する人物像のイメージと、世間から見た人物像のイメージの差異が大きい場合です。

この中で、例えば、嘘を重ねた結果の人物像が他者からのイメージとして固定されたとして、その世界で生きていくのは非常に苦難に満ちたものとなるでしょう。

友人や知人から始まり、そして家族にも嘘を言い続けたのだとすれば、真実を知っているのは本人のみとなります。
そうすると、それらの嘘を全て集約するのは本人でしかできないのです。

『少女地獄』の登場人物「ユリ子」は、虚構を重ね過ぎたが故、その虚構の崩壊に耐えられなくなり自殺するのです。

私が彼女と同様に虚構を重ねて生きているのだとすれば、私も彼女と同じ道を歩むことは自然かつ当然であるはずです。

この数年間、あまりにも多くの嘘を言ってきたのは事実です。
その報いをどう償うのか、近いうちに決断しなければなりません。

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  2015/3/9

先日、尊厳死が世界中で話題となり、同時に社会問題となったので、今日はこれについて考えてみます。

まず問題となった点は二つ考えられる。一つは生存権であり、もう一つは尊厳死自死であるか否かである。

前者で生じる問題は、人間によって他者の生死を選択するということは、殺人や自殺幇助になるのではないかというものである。
肯定的な立場から見るならば、QOLや尊厳を保つ目的であるため、必要であろう。近年の無意味な延命治療を考慮すると、もっともである。
しかし、全ての尊厳死を行う組織が法や個人の意思を配慮しているとは限らない。悪意ある人間が尊厳死の名のもとで、殺人を行っていてもおかしくないのだ。楽観的に尊厳死を捉えてはならず、こういった問題が背景にあることを知っておかねばならない。

メディアで取り上げられている組織は、何十もの審査を経て尊厳死を受け入れているが、そういった組織はオランダやスイス等の海外諸国に多く存在し、そこに多くの人が訪れているのは、やはり日本において十分な体制が整っていないからであろう。

現在の日本では尊厳死法案は認められておらず、今もなお国会で議論されている。一般の我々は署名活動などでしか参加できず、その先は国会議員の方に任せるしかないのである。問題は山積みであるが、他人ごとではなく、一日本国民として考えていくべきなのではないだろうか。

後者は言わずもがな、尊厳死は自殺であるか否か。私はこの点について深く考えたい。

自らの意思で死を選ぶことは、確かに自殺であるとも考えられる。医師や薬を用いているとは言え、結果として自らの死を自らで決断しているからである。

極端な例ではあるが、死と直面しているような職業が数多くあり、彼らはそれを理解した上で職務に当たっているわけである。そういった心情を勇敢と捉えるか、無謀と捉えるか、それは個々人の見解で大きく変わるはずである。

上記のような、仕事として死を迎えることと、病気や諸事情によって死を迎えることは同じではない。しかし、死が近いとわかっている点では似た部分もあるのではないだろうか。

尊厳死を選ぶ方の大多数は肉体的苦痛が原因である。延命治療を続け、耐え難い痛みと闘い続ける、または家族や周囲の人々に迷惑をかけたくない、そういった理由で尊厳死を選択するのだ。

日本では生きることが半ば義務のようになっているものの、死ぬ権利というもの存在しない。憲法がある故に仕方がないのだろうが、これは尊厳死を望む人々の意思を尊重していないとも考えられる。

ここまで挙げた疑問点を私自身で読み返したが、やはり尊厳死は単なる自殺とは異なるものであると思った。根本的に似て非なる問題なのである。

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  2015/3/8

自己開示は一部の人にとって非常に容易いものであると思われる。考えや悩み、自分の人となりを他者に話すだけとも言えるからである。単なるコミュニケーションとしても利用できるし、親密な関係を築くために用いることもできる。「僕はこういう人間なんだ」「私はこんな考え方なのよ」と他者に示すことで、表面上では理解できない本質を伝えられる。

こう表現すると便利で有効的な手段に聞こえるが、私には一切共感できるものではない。

私は昔から自己開示が苦手で、更に言えば自己開示をすることが嫌いなのだ。自分の考えていることや悩んでいることは山のようにある。しかし、それらを何のために、何故、赤の他人に言わなければならないのか。私の過去や秘密を話す必要がないではないか。

そう考える理由はいくつか挙げられる。
まず一つ目は、人間の根底にある問題意識を共有することは不可能だからである。ただ、共感することとは別である。共感は一種の同情や哀憫が含まれていて、相手を思いやっているものの、ある意味他人ごととして捉えられるのだ。
しかし、共有はその事象を自己に取り入れ、相手と同様の心情となる。口では簡単に気持ちを共有できると言う人もいるが、それは困難であるし、ほぼ不可能ではないだろうか。
根底にある本質は、過去の積み重ねで形成されるものであり、短時間の対話を通しては決して理解し得ない。

そして二つ目は、自分を知られるのが怖いからである。趣味や好き嫌いを知られたのだとしても、特に支障はないのだが、自分の心の内を見られると、全てを支配されてしまうような錯覚に陥ってしまうのだ。人格や本質を知られると、他者からの影響が強く反映され、私が私でなくなる気さえする。

最後に三つ目は、他者との交流が嫌いだからである。近年、「縁」や「一期一会」といった言葉を好んで使う人が増えている傾向にある。私はこれらの言葉の響きが非常に苦手であり、嫌悪感を覚える。
一時的な交流であれば苦ではないのだが、その交流を崇高なものとして扱い、FacebookTwitterの友達数がステータスとなっている。

果たして、そういった繋がりがどういう意味を持つのだろう……。

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  2015/3/7

自殺とは何であるか。言わずもがな、自らの意思で死を選択する行為である。ここではどういった問題が生じるのかを考えてみます。

多くの人がまず思いつく理由は、感情論であろう。遺された家族が可哀想であるから、または生きたくても生きられない人がいるから、等々。ひとまず二つの例を挙げて考察してみる。

前者は言葉通り、自殺者の遺族の気持ちを配慮しているものである。親や子が突然死んでしまう、その悲しみは計り知れないものであろう。
その上、原因が自殺となると、側にいて何か出来たのではないか、異変に気づけたのではないかと、自分を責めても責めきれないほど後悔するはずだ。
心が安定している状態で自殺を行う場合は少ないと思う。突発的に死への衝動が起ききたのだとされていても、それは安定しているように見えていただけであり、本人の心の奥では、一人で背負いきれない苦しみがあっただろう。

自殺をほのめかすような予兆はいくつも考えられる。例えば自傷行為が激しくなったとき。例えば日常的に「死にたい」と言っているとき。自殺した著名人に興味を持つ場合もそうであろう。

我々の近くに上記のような人がいたとするなら、どう接するのが適しているのだろう。
家族や恋人、親しい人達が親身になって話を聞き、彼の苦しい現状や悩みを理解すれば良い、と言う楽観主義者が大多数だと思うのは私だけなのでしょうか。
もちろん、信頼できる人に苦悩を聞いてもらうことは大切なことであり、会話の中での何気ない一言が胸に響くときがある。自分は生きなければならないと思えたのなら、それは結構である。

しかし、会話を通して怖れるべきことは、励まされることである。励ましの言葉をかける立場の人間は、死のうとは毛頭思っていない。それに対して励まされる立場の人間は、死のうという意思が前提にある。鬱病の患者にがんばれと言ってはならない原理と同じようなもので、励まされるとより一層、死が身近になるのである。

いくら親密な関係でも、どれだけ悩みを打ち明けても、本心は決して他人には理解できないものなのだ。精神科医やカウンセラー等のプロの方と話をしても、彼らには当人の深い闇を覗くことはできない。
カウンセリング治療が合う場合は、聞く側の上手さ、もしくは患者の自己開示ができたときだろう。

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  2015/3/6

まず、私がブログを始めようと思ったきっかけは、日々自分自身の中で考えていることを言葉で表現したいと思ったからです。

漠然と抽象的なことや、実にどうでも良いようなことしか考えていないのですが、他者と接することのない私にとって、少しは意味があるのではないかと思った次第です。

毎日とはいきませんが、心にある問題意識を稚拙な文章で書いていこうと考えています。

テーマは日によって様々でしょう。自己満足ですが、よろしくお願いします。